大友皇子の陵(伝)?

所謂、大友皇子とは後の弘文天皇で、生年は大化4(648)、没年は天武17(672)とされる人物である。
日本書紀では、即位を載せておらず、明治政府になってから弘文天皇としての即位があったはずだとして今日に至っている。
さて、伊勢原市の日向に大友皇子の陵があるのをご存じだろうか?
謎多き大友皇子の陵(伝)
享年25歳、壬申の乱で、大友皇子は皇位継承の事から叔父の大海人皇子と戦い、敗れて近江山前(滋賀県大津市)で自害したとされる、大化の改新を行ったことで知られる天智天皇の皇子である。

日向川流域の伝承によると、王子は近江から逃れてこの日向の山中に隠れ住み、世を避けて詩歌風月を友としてその一生を送り、没後に御所入り古廟塚に奉葬されたと言うのである。
現在は、御所入りの古廟塚にある五層塔は、本物と同じ石材でつくられたレプリカが設置され、石雲寺の境内(本堂前に)実物が移設されている。
神奈川県下では数少ない中世の層塔として平成17年に市指定文化財になったが、平成15年の調査で14世紀後半ごろの南北朝時代に作られたものと結果が出ている。
県内では名の知れた古刹である日向薬師などもあり、郷土の歴史では重要なこの地ではあるのだけど、現在では牧歌的な風景しか残さないこの地には意外な存在であるわけである。

また、石雲寺には位牌もあるというので信ぴょう性は高いのであろうか?
真偽のほどは定かではないにしても、相模の地にこれだけの歴史ロマン的な遺構が残されているのは幸せである。
石雲寺
この石雲寺は、大山寺と同じで山号を大山寺と同じ雨降山としている開創1300年の歴史的な寺院である。不確かであっても
北条玄庵(長綱)朱印状(石雲寺に諸役を免除する通達した文書)、徳川家康朱印状などがある由緒ある古刹である。
周囲には、日向薬師や日向川流域の牧歌的な風景などの観るものもあり、県内の歴史ファンにはおすすめしたいスポットである。
大友皇子の陵(伝)と石雲寺アクセス
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