矢口長者伝説とかって伝説じゃなかったの?

中津川上流域には一風変わった地名や沢の名称が多く、ご興味を持った方も少なくはないだろう。

札掛については「中津川と渓流釣り」の文中の札掛の由来 で説明した通りだが、御殿の森・南麓にも「長者屋敷」という地名があり、長者屋敷キャンプ場がある。

矢口長者と中津川

沢の名称に目を向けると、「勝負沢」、「六百沢」、「コロガシ沢」、「二十ヶ沢」、「赤血ヶ沢」など奇怪にして何やらキナ臭くも血なまぐさい感じのものが多く目につく。

清川村教育委員会発行「清川村地名抄」昭和57年(1983)によれば、これらほぼすべては「矢口長者伝説」に因むものなのだという。

矢口長者伝説

山間の集落などによく見られるいわゆる「隠れ里伝説」の一つであるのだが、それらとは一風変わっていて、むしろかつて起こった事件のような語られ方をしているところが興味深い。

宮ケ瀨村 美也加勢牟良 正保の改に宮河瀨村と書せり、江戸より十八里餘、応永の頃矢口信吉と云者、開墾の地と云事蹟詳ならず、屋敷蹟の條并見るべし、東西二里半餘南北一里餘東、半原村、西、丹澤山、南、煤ヶ谷村、北、鳥屋川を隔津久井縣鳥屋・靑山二村、民戸八十三、甲州道係る幅九尺、
(新編相模国風土記稿)

丹沢の隠れ里・矢口長者伝説の概要

時代背景は足利幕府成立前後ということらしい。

もちろん、当時は中津川の川下の宮ヶ瀬は、当時、谷間に民家が点在するだけの小さな山村であったそうだ。

ある日、若者が中津川で釣りをしていると、川に浮いている漆塗りのお椀が流れてくるのを見つけた。

「誰も住んでいるはずがない山奥から、こんなりっぱな椀が流れてくるなんて」。

不審に思った若者は、川をのぼって行って驚いた。そこには金銀を散りばめたように輝くりっぱな屋敷が建っていたのだ。

その敷地には落ち武者らしい人物も見受けられ、そばには何頭もの白い牛が寝そべり、花々が咲き誇っていた。

村へ帰った若者は、仲間みんなに話した。

村人達は次第に、金銀財宝を奪おうと言う話になり、竹槍や鍬、鎌などを持って、深夜の闇にまぎれて館を襲った。

不意をつかれた矢口長者一族は右往左往し、一家全員殺害された。

館には火がつけられ、村人は次々に財宝を運び出した。

矢口長者のひとり娘(一説には夫人)は、御殿の森まで逃げたが、ついに村人に追いつめられ、頭にさしていた金のかんざしで、のどを突いて自害した。

さすがに哀れに思った村人は、「金のかんざしご神体」とした小さな祠を建てたのだと言う。

ザッとしたお話はこういった流れではあるのだけれど、冒頭のりっぱな椀が流れてくるというところは西丹沢の世附に同じような話が残っているので、比較的近代に入ってからの混同されているような疑いがある。

世附付近の集落は、かつて川下の太平洋側の社会と隔絶されていたそうで、むしろ道志村との結びつきが強く、時代は遡るが「裏相模」と鎌倉時代に呼ばれていたそうだ。

「椀が流れてくる」といった話はこちらにもあり、時代背景も先で、立派なものでないという装飾がなされていない点を考えても、こちらに信憑性がありそうでのちに拝借したということではないだろうか。(あくまでもボクのあてにならない推理だがw)

矢口長者とは誰なのか

2015-06-09-4

新田義興とは、鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込みながら足利尊氏に敗れた父・新田義貞の遺志を継ぎ、新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力し、延元2 建武4(1337)年、北畠顕家と共に鎌倉を攻略(和暦は南朝/北朝)。

だが望み叶わず、足利尊氏・足利基氏に敗れて、越後に逃れるも各地で転戦したのち、再度、鎌倉を目指す。

時は正平13 延文3(1358)年10月10日、江戸遠江守の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出した。

しかし、舟の渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き、逃亡。

舟が沈みかけると、多摩川の両岸より江戸氏らの伏兵が一斉に矢を射かけた。

無念にも裏切られた新田義興は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込むなど、主従13名も、矢口の渡で最後を遂げた。

これが新田義興という人物になる。

その家臣のなかに矢口信吉(のちに名乗った。一説には矢内)という武士がいたとされ、矢口信吉は主君を失い、わずかな郎党を率いて丹沢山中の宮ヶ瀬の奥地まで逃れていた。

その後、館を築き、隠棲の地とし入道、矢口入道信吉と名乗り落人生活をしたのだ。

周りは山深い丹沢の地。矢口一族は狩猟を主にし、また中津川で魚を取り、更に奥地の川からは砂金を取ったりしたと言う。

矢口家は、この山深い地で白い牛を99頭も飼育して、煤ヶ谷を山越えしては、ひそかに鎌倉まで行き交易して富を蓄えたとされ、矢口長者と呼ばれた。

この矢口入道信吉という人物が矢口長者である。

矢口長者伝説まとめ

一見する金目当ての村人による館の襲撃事件といった記録のようにも語り継がれている訳ではあるのだけれど、当時はすでに足利幕府も成立後であり、矢口一族は落武者である。

現代でいうところの指名手配すら受けていたとすれば、村人側の正義だったと言えるのかもしれない。

屋敷があったとされる「御殿の森」「長者屋敷」をはじめ、矢口信吉最期の地とされる「勝負沢」、奪った金を数えた「六百沢」、金があまりに重く落としてころがしてしまった「コロガシ沢」、娘が追い詰められたとされる「二十ヶ沢」、ノドをついて真っ赤な血が流れた「赤血ヶ沢」。

その他、一族が砂金を取ったと伝えられる複数の「金沢」などなど。

今回の話とは別件だが、次のような話もある。

大正時代に気のふれた女性が山にこもり、生きながらえ髪がぼうぼうの姿で見つかった。

まるでオバケのようで、恥じたのかその身を投げて死んでしまったという沢、「オバケの沢」などまだまだありそうだ。

しかし、平安期辺りまでこのあたりには「富士アイヌ」が住む地であったと記録もあるようで、アイヌ語に漢字などをあてただけの名残と感じるものも多い。

さらに細かいところでは、その後に渡来系の人々の入植の記録もあり、「古朝鮮語」ととれるものも付近には多い。

まぁ、今回の矢口長者についてはいずれも“つじつまの合ったもの”だが、地名を含めて、こういった伝説も丹沢の中津川流域に伝わっているのだと“ウンチク”の一つにでもなれば、釣りや山歩きも濃いものになるのではないでしょうか。